医師 黒木 弘明

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二〇二四年 五月九日(木)

綴りごと 想いごと

頑張れと言う前に

 

上司や親、先生、先輩に沢山見受けられるのが、
過去の自分の大変だった体験を持ち出して、
だから貴方も頑張りなさい、という論法。

 

 

 

言っている方は、大変な体験をしてきた自分は
それで相手に共感していると思っているので、
だから君も頑張れるよ、と仰るけども
それは、頑張れよ!と命令しているのと同じ。

 

 

 

辛かった体験を乗り越えたのは素晴らしい。
でも、それで似たような体験をしている人
全てに共感できる訳でも、命令する権利を
手にした訳ではないので、注意が必要です。

 

 

 

そんなこと言ったら、
僕も母子家庭で育ちましたよ?
妹は白血病で亡くなりましたよ?
反抗期もなかなか酷かったですよ?
職場でパワハラにも遭いましたよ?
反対を押し切って無給の育児休暇を取りましたよ?
体も心も壊したことあるよ?…などなど
そのほか諸々ございますが

 

 

 

でも似たような経験をしている人全てに
僕は「頑張れ!」言う権利がある訳ではないので。
100歩譲って、多少の共感が出来たとしても、
それでも理解したとは限らないので。
どこまでもみんな、少しずつ背景や状況が違うので。

 

 

 

自分の辛かった体験を、
他者に対する理解の幅や思いやりに
繋げることができれば
それは心の糧と言えるでしょう。

 

 

 

その一方で、辛かった体験を盾に
他者を理解したかのように振る舞ったり、
誰かの辛い体験を大したことないと言ったり、
助言と称して、何かを強要するような
攻撃的な姿勢に繋がってしまったのなら、
それは心の傷だと言えます。

 

 

 

辛い体験を乗り越えたことは
その人にとって勲章ではあるけれども
それを持って指導者や理解者に
なった訳ではないのであります。

 

 

 

多くの方が自分の心の傷を
自分が指導者である証明書のように
使いたがりますが、
それは部下、生徒、子ども、後輩には
なかなか迷惑な話しだったりするのです。

 

 

 

「昔話、自慢話、説教は求めてない」
「似たような体験だけで分かったフリしないで」
「今目の前にいる、こっちの話しを聞いてよ」
って、彼らはおそらく思ってる。

 

 

 

似たような体験でも
みんなちょっとずつ違うから。
似てても全然違うから。
勝手に理解者や、仲間にはなれない。

 

 

 

むしろ、どこまでも同じにはならない、
お互いの存在という「違い」を基盤にして、
相手を知ろうとする、理解しようとする姿勢が
大切なことのように、僕は思うよ。

 

 

 

心の傷をマウントや攻撃に使うと
傷がうずいて、余計に痛くなる。
辛い体験を思いやりに繋げると
心の糧になって、楽になる。
使い方。