医師 黒木 弘明

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二〇二四年 五月二日(木)

綴りごと 想いごと

音・声・愛

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【音・声・愛】
最近、音楽とか声について、よく書いています。
少し前のブログでは「声は肥えだから、栄養になる」
とも書きました。


声も含めて、音声はやはり、
エネルギーなんでしょうね。
その音声に込められたエネルギーが、
聴く者にフィットする時に、活力となるのでしょうね。


昨日も書きましたけど、
音楽は薬、
音声は薬なんだと思います。


それで行くと、
ミュージシャンの方々は
ある意味、お医者さんとか、癒し手ですね。
だから、ライブハウスは静養所、
CDやレコードは処方箋ですね。


同じ理論でいくと、
落語家さん、講談師さんなど噺家の方々も、
ある意味、お医者さん、癒し手ですね。
寄席が、静養所でしょうか。
こちらの処方箋は『笑い』ですね。
かなり強力です。


それからラジオの人もそうですね。
たとえば、ブロードキャスターの
ピーター・バラカンさんは、
もう声自体が処方箋のような存在ですね。
(ロック音楽の聖ペテロだと思います)


つまり、どんな場合でも
人間から発せられる音や声に
それなりのエネルギーが詰まっている
ってことです。


大切なのは、
音や声を出している本人が
それに気付いているかどうか?
それに責任を持っているかどうか?
ですね。


テキトーなひと言、ひと声の
テキトーなエネルギーが
聴く者を不快にさせたり
或いは、傷つけたりすることもあります。


声の発信主は
「傷つけるようなことは言ってない!」
と主張しますが、言葉じゃないのです。


声なのです。
音なのです。
そこに込められたエネルギーなのです。


つまりそれは、
愛です。


テキトーなひと言、ひと声とは
愛の無いエネルギーのことです。


傷つける気はなくても
愛の無いエネルギーは
相手のエネルギーを吸い上げます。
エネルギーを奪われた相手は
弱り、傷つくということです。


私一人ひとりが
それを意識しているかどうか?
自分の発する音声というエネルギー
自分の発する愛に対して
責任を持つかどうかです。


以前ブログで、
「偉い先生の講義が酷く退屈で悲しくなった」
と書きました。


カチンと来る人が居たら
申し訳ないのですけど
中途半端に偉い先生の声って
どうしてあんなにテキトーなんでしょう?


愛が無い


と聞こえるくらい
エネルギーが少なくて
悲しいです。


よっぽど仕事熱心なのでしょう。
しかし、自分に対する愛が欠乏しているのか?
他人に愛を配る声が出ないのかも知れません。


寄席の噺家さん、熟練したミュージシャン、
喫茶店のマスター、ラジオのパーソナリティの方が
よっぽど声に愛があります。


俺は専・門・家だから、
診断だけ上手にすれば良い、
手術が巧ければ良い、
助言が上手ければ良い、
答弁が上手ければ良い、
陪審員を上手く説き伏せれば良い、
ギターさえ上手く弾けば良い、
ちょっと笑わせてやれば良い、
ちょっと沢山物を売れば良い、
あとのことは知らない。


そんな分業なんて
度が過ぎていやしませんか?
意味ありますか?


誰であっても
資格や立場にかかわらず
その人が発するエネルギーが
世界に影響しています。


ひと言、ひと声
一挙手一投足が
愛のストロークなんですよ。


職場でも
家でも
どこでも。


私たちは誰でも
愛のかたまりです。
愛なる存在です。


ただそれを
自覚しているか・いないか?
の違いです。


この世界では未だに、
愛の奪い合いが続いていますが
それも自分が愛なる存在だと
気づいていないからだと思います。


過去がどうあれ
あなたは
愛なる存在です。


生きている間に
気づけるようになりたい
最大のテーマのひとつは


自分が愛であるということ
ではないかと私は感じます。


あなたと言う愛。
さぁ、今日はどういう風に
使いますか?