医師 黒木 弘明

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二〇二四年 五月五日(日)

綴りごと 想いごと

自信

少し変わったことを申し上げますが、
自信があることと、自信がないことは
どっちも同じことのように感じます。


拙著・生学癒活の中で私は
「自分を知らない状態が自信のない状態」
と述べました。


まず宇宙のような広大な自分に対して
興味を持ってしっかり見ようとしなくては。
そこから逃げていては、何事も始まらない。


自分のことだから自分が一番知っている
と言える程、自分は狭くはないのです。
知っているのではなく、決め付けている人が多いです。


「自分をよく研究する。
そこから自分を信頼する道のりが始まる」
とも書きましたが、今日はもっと深掘りをします。


自分のことを少しずつ
信頼できるようになったら
その先はどうなるか?


自信なんか要らないや!ってなります。
自信が欲しくて生きてるんじゃない、
ということに気づくはずです。


自信が無かったのではなくて、
不安、心配、取り越し苦労に加えて
自分と人生に対する決め付けがあっただけです。


この大きな世界の中で
小さな自分が生きていくのが
心細かったということでしょう。


ですが、しっかり自分を見て
自分を研究してゆくと
やがてお分かりになるはずです。


本当は自分の中に
この世界が在るということが。


大きな自分の中に
小さな世界を無理に押し込めるから
不調和が起き、その結果自信を失うのです。


そのことが分かれば
自信なんか要らないのです。


中には、自分のことを研究もせずに
自信なるものをお持ちの人も少なからず居ますが
それは自信が無いのと同じ状態です。


自分の中でとめどなく発生する、
不安、心配、取り越し苦労を
視界から見えなくする為の発煙装置として
自信なるものを使っているだけのこと。


発煙装置を起動させ、作動させ続けるには
それなりのエネルギーが要ります。
自信なるものがあったとしても
徐々にエネルギーが切れてゆくのです。


そんな訳で、
自信がないのも、自信があるのも、
あまり大差ない感じです。
だって、そもそも
自信なんて要らないんだから。


不安でも良い。怖くても良い。
楽しくても良い。能天気でも良い。
良いとか悪いとかないから良いんだよ。


この決め付けない状態、中立的な状態が、
私の言う本来の自信であり、自分軸であり、
愛です。


身に付けようと躍起に追い求めるものではなく
知らずに湧き上がるものが、愛としての自信です。
自信の有無に固執してると遠ざかってしまうのです。


だからもしも貴方に自信がなくても、
そこから自分を研究すれば良いのです。
大丈夫。自信がないことは何も悪くない。


逆に、鎧のような自信なるものがあるならば、
それは自信が無いものと謙虚に解釈し直し、
今一度振り出しに戻って、手間隙をかけて
自分を見つめ直し始めれば良いのです。


あとは答えをすぐに欲しがらないこと。


しかし貴方が抱くものが、自信なるものじゃなくて
なぜか楽しくて、何となくの確信めいた感覚ならば
それを無垢に信じて進んで行けば良いのです。
それこそは、貴方の人生の羅針盤です。


貴方がこの世界に居るのではなく
この世界が貴方の中に収まっているのだから
貴方が進む方角に世界が新しく生まれるのです。