医師 黒木 弘明

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二〇二四年 四月二六日(金)

綴りごと 想いごと

私の祈り

引き続き、ウクライナ🇺🇦とか

平和とか人類のことを想い続けていますが、

ふと気づいたことがありました。


昔はイランイラク戦争とかがあって
その後911、湾岸戦争とか、アフガニスタンとか、
コソボとか、東ティモールとか
ガザ、ソマリア、リビア、イエメン、
そしてクリミア半島…


その間僕は
どうしていただろうか?


心を痛めたことが
あっただろうか?


驚きはしたものの
心を痛めてはなかった気がする。


あったとしても
ことの善悪を論じる程度
だった気がする。


善し悪しを論じる、
どちらが正義かを論じる、
その程度だった気がする。


そこに祈りが無かった。


僕にとって祈りというのは
形とか場所とかのことではなくて、
自分の胸に手を当てることから始まる。


争いごとについて祈る時
自分の胸に手を当てるということは


僕の中に争いごとが無かったか?
誰かを傷つけるような想いが無かったか?
僕の中に戦争の心が無かったか?
と内省することから始まるのです。


自分の胸に手を当ててみた。
すると、僕の中に戦争の種があった。


自分の嫌いな人を空想の中で
叩きのめしていた僕が居たことを告白する。
恥ずかしながら僕の中に戦争の種があった。


そのことが今回の戦争を呼んだ
とは言わないが、
自分のことを棚に上げて
戦争の善悪を論じて平和を願うことが
今の僕には出来なかった。


さぁ、自分の中の種と向き合ってゆこう。
そして、それでも平和を諦めない自分を
責任を持って育ててゆこうと決意する。


平和を諦めない。
自分を諦めない。
無理だと決めつけない。
それが希望を捨てないことだと想う。


戦争の善悪を論じすぎると
戦争の種が気付かぬうちに
発芽しそうになるのが皮肉だ。


もうその手には引っかかりはしない。


自分の中の戦争の種を駆逐するのではなく、
平和を目指す自分を育て続けるのだ。


戦争の種があるということは
まだ世話が足りないということだろう。


僕は胸に手を当て
自分のこととして
平和を願いながら
この世界とそこに生きる自分
という希望を諦めずに
同じ空の下で生きてゆく。


それが些細な
僕の祈りです。