私の祈り
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引き続き、ウクライナ🇺🇦とか
平和とか人類のことを想い続けていますが、
ふと気づいたことがありました。
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昔はイランイラク戦争とかがあって
その後911、湾岸戦争とか、アフガニスタンとか、
コソボとか、東ティモールとか
ガザ、ソマリア、リビア、イエメン、
そしてクリミア半島…
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その間僕は
どうしていただろうか?
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心を痛めたことが
あっただろうか?
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驚きはしたものの
心を痛めてはなかった気がする。
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あったとしても
ことの善悪を論じる程度
だった気がする。
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善し悪しを論じる、
どちらが正義かを論じる、
その程度だった気がする。
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そこに祈りが無かった。
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僕にとって祈りというのは
形とか場所とかのことではなくて、
自分の胸に手を当てることから始まる。
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争いごとについて祈る時
自分の胸に手を当てるということは
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僕の中に争いごとが無かったか?
誰かを傷つけるような想いが無かったか?
僕の中に戦争の心が無かったか?
と内省することから始まるのです。
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自分の胸に手を当ててみた。
すると、僕の中に戦争の種があった。
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自分の嫌いな人を空想の中で
叩きのめしていた僕が居たことを告白する。
恥ずかしながら僕の中に戦争の種があった。
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そのことが今回の戦争を呼んだ
とは言わないが、
自分のことを棚に上げて
戦争の善悪を論じて平和を願うことが
今の僕には出来なかった。
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さぁ、自分の中の種と向き合ってゆこう。
そして、それでも平和を諦めない自分を
責任を持って育ててゆこうと決意する。
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平和を諦めない。
自分を諦めない。
無理だと決めつけない。
それが希望を捨てないことだと想う。
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戦争の善悪を論じすぎると
戦争の種が気付かぬうちに
発芽しそうになるのが皮肉だ。
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もうその手には引っかかりはしない。
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自分の中の戦争の種を駆逐するのではなく、
平和を目指す自分を育て続けるのだ。
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戦争の種があるということは
まだ世話が足りないということだろう。
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僕は胸に手を当て
自分のこととして
平和を願いながら
この世界とそこに生きる自分
という希望を諦めずに
同じ空の下で生きてゆく。
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それが些細な
僕の祈りです。