父の日とは
父である人、父のような立場にある人、
さらには、老若男女に関わらず
家族や集団を営んでいる人は全て、
同胞だと私は思っている。
父の日と言うことで、
今日は同胞たちに向けて、少し辛口だが、
私の考えを(少し本格的に)載せている。
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〓父の日に父は何をするべきか?(その1)〓
私が考える父の日は、父『が』感謝する日である。
一般には、父『に』感謝する日
と言うことになっているが、
全ての父は自分一人では
父にはなれないのであるから、
むしろ父の方が、
父にさせてもらったことを感謝する日、
又は、感謝を示す日だと、私は考えている。
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〓父の日に父は何をするべきか?(その2)〓
父自身が「父としての自分」について考えるのが父の日、
とも考えている。
考えるテーマとして、私が勧めるのは次の2点である。
①「父という名の裸の王様になっていないか?」と
②「父という役割に依存していないか?」である。
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〓①父という名の裸の王様になっていないか?〓
周囲や家族から見て、
自分はどんな父になっているのだろう?ということを、
父自身が、真摯に、素直に、逃げずに考えよう。
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例えば、あなたが就職をし、収入という経済力を
持つことに威を借りる狐のような父になっていないか?
不機嫌な時に大声を出すだけの
理不尽な存在になっていないか?
家族から(もう何を言ってもダメだ、という意味で)
目をつむられるような、諦めの象徴のような存在に
なっていないか?などについて、改めて考えてみよう。
父である自分に対して、批判的な視点で考察をするのは、
誰しも怖いことでもあるだろうが、
せめて年に一回くらいは、
胸に手を当てて考えるべきだろう。
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もう少し具体的な点を挙げるとすれば、
例えば、父としてのあなたの愛情表現は十分だろうか?
パートナーや子どもに対して、あなたの中に在る愛を、
彼らに分かり易い形で、彼らが受け取りやすい形で、
素直に表現しているだろうか?
ただ愛情を表現すれば良いのではない。
相手のことに構わず表現する愛情というのは、
時にして相手の恐怖を生むこともあるのだ。
その為に父は、彼らのことを
「いつまでも」知ろうとしなくてはいけないが、
あなたは彼らのことを、その目とその心で、
しっかり見ているだろうか?胸に手を当てて考えよう。
この1年間で、パートナーや子どもたちの笑顔を、
あなたはいくつ生み出しただろう?
そして、あなたには絶対に見せない彼らの涙のことを、
あなたは何度想っただろうか?
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もっともっと、具体的に申し上げよう。
例えば、家の中には
「手伝われても全くもって迷惑なこともある」
というのもご存知だろうか?
あなたなりに、家事や子育てなどを手伝っている
のかも知れないが、
中には、あなたのポイントがズレているが為に、
感謝されるどころか、むしろ相手にストレスを与える
ようなものがあることを、あなたは知っているだろうか?
(さらに素敵な家族であればあるほど、
ストレスを被った相手の方が
我慢してくれることが多く、それによって
あなたの気付きが遅れているというのは、
なんとも皮肉なことだ。)
仮にあなたが、
自己満足的に家をピカピカに掃除しても、
パートナーが心から喜んでいる
とは限らない、という場合もあるのだ。
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さらに厳しい視点を続ける。
もしも、あなたから見てパートナーの魅力が
下がったと感じたならば、
それは、あなたの魅力が下がっている
という厳正な現実を、
パートナーが映し鏡のように表現しているに過ぎない。
あなた自身の生き方や、人としての在り方について、
再度考え直す良い機会をもらっている、
と思った方が良い。
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〓②父という役割に依存していないか?〓
昭和型の父親とか、令和の時代の父親とか、
父性の復権などと格好の良いことを言っている暇はない。
今が何の時代であろうと、他人がどうしようと、
まずは『あなた自身の父というスタイル』を、
日夜研究し、実践せねばならない。
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父として家族を守っている。。。
美徳のように聞かれるこの言葉に、
私は以前から、大変な違和感を覚えていた。
守るというのは、外敵に襲われないように弱き者を守る、
かのような響きがある。
しかし、家族は守るものなのだろうか?
守らなければならない程に弱いものなのだろうか?
仮にそうだとしても、守り続けることによって、
家族が弱い存在のままで居続けてしまう、
という逆転現象も起きてしまうだろう。
そうして、家族がいつまでも弱いままだから、
父に庇護者としての役割が求められる、
というのであれば、
それは父としての自分が、永遠に必要とされ続ける為に、
あなた自身が家族に依存している、
と言えるのではないだろうか?
家族は弱くなどない。
その証拠に、家族は私たち父を
支えてくれる強い存在だ。
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父として家族のために苦しい仕事をしている。。。
この言葉にも大きな違和感を覚える。
仕事の苦しみを家族のために耐える、
ということならば、
当の家族は果たして嬉しいだろうか?
父が自分たちのために苦しい思いをしている。
昔は「お父さん、ありがとう」だったかも知れないが、
「私たちの為に(体と心を壊すような)苦しいことは
これ以上しないでよ」と思う優しい家族も、
この時代居るのではないだろうか?
仕事の苦しみというのは、父の中の問題である。
つまり、自分の中の苦しみに向き合わず、
「家族のため」という美徳で誤魔化すのは、
私は家族と自分の人生に対して
とても失礼なことだと考えている。
ちなみに私は個人的には、
父として「大人は苦しいぞ」ということよりも、
「色々あっても大人は楽しいぞ!」
というメッセージを、自分の背中と言葉で発したい。
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果たして自分は、
父として、自立しているだろうか?
それとも、依存しているだろうか?ということを、
父の日に父自身が考えることの重要性を訴えたい。
父という名の下に、
何か本来、自分でやらなければならないこと、
自分で向き合わなければならないこと、
それらから逃げていないだろうか?
を自らで検証したい。
何故なら、私の考える家族とは、
各人を美徳という縄で縛り、各人を依存させ、
集団の中に留め置こうとするものではなく、
各人の自立を促し、世界に向かって
自由に解き放つものであるからだ。
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〓最後に〓
改めて私が思うのは、
父とは役割ではない、ということだ。
父とは、運命の出逢いであり、チャンスである。
自分という人間に
様々な経験を与えてくれるチャンスであり、
自分という魂を成長させてくれるチャンスである。
修行のように思われるかも知れないが、
真剣にやればやるほど楽しくなるのが
苦行とは異なる部分である。
もちろん、自分も家族も1秒ごとに老いているので、
父の形も、家族の形も刻々と変化すると考えている。
そんな定まらない父という運命の中で、
私は日夜、苦悩しながら
(私の母校の言葉を使えば「哲学しながら」)
楽しみながら自分を全うしたい。
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最後まで長文を読んで下さって、有難うございました。
今日の写真は、「私の父の形見の腕時計」です。