医師 黒木 弘明

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二〇二四年 四月一八日(木)

綴りごと 想いごと

求める心

よく「人間は独りでは生きてゆけない」

と言われます。


その意味は、
人間どうしの関わり合いの中から
人間が人間たるヒントを得る
ということではないかな?と僕は思います。


人間が人間と接している限り
どうしても生まれるのが
「求める心」であります。


ああして欲しい、こうして欲しい
〜しないのはおかしい、
〜して然るべきだ…などなど


その中でも自分に跳ね返ってきて
自分を妙に疲れさせるのが
「求め(過ぎ)る心」かなと思います。


例えば、八百屋さんに行って
「大根ください」と言うのは
求め(過ぎ)る心じゃなくて只の要件。


だけど、八百屋さんに行って
「大根ください」と言って
そこで出された大根を見て


何だ!世界一の大根が出てこないじゃないか!
もっと素敵な包装紙に大根を包みなさいよ!
とか思うのは「求め(過ぎ)る心」です。


求め過ぎると、過ぎた分が
疲労とストレスとなって自分に戻ってきます。
帰ってきます(求め過ぎる心の里帰り)。


(求め過ぎる心)−(求める心)=「過ぎた分」
一体何が?どこが?過ぎていたのでしょう?
胸に手を当てて、以下の六つを探してみて下さい。


●不明確:
相手に求めるものを
相手が解るように伝えていない、
過度に察してもらおうとしている


●不適性:
到底相手には応えられない要求をしている、
相手の性質を知らない、知ろうとしていない、
相手の性質を考慮していない要求をしている


●不寛容:
相手が改善する機会を与えていない、
相手が気づく機会を与えていない、
相手の不出来ばかりを責めている


●不協力:
自分が関連する問題であっても
相手と一緒に協力・協働して
前に進めようとせず、労力を払わない


●不見識:
なんでも自分の思い通りになると思っている、
自分で支配し、従わせようとしている、
謙虚さを忘れている、学習の不足


●不調:
自分のコンディションが悪いために
相手に過度の要求をしている、
相手のコンディションが悪いために
様々な要求に応えられない、
もしくは、そんな自分や相手に気づいていない


知らなかった、悪気は無かったとしても
求め過ぎてしまった分は、
自分に跳ね返ってきて、自分を弱らせます。


でも、それが悪いという話ではなくて、
本当の問題、主題はここからです。
(やっとか、前説長いな)


毎日の生活を生きる我々の中にある
求める心はゼロにはならないのですが
それを放置したまま、自他を責めるのではなく


「いつの間にか求め過ぎてたんだなぁ〜」
「どの部分が過剰に求めていた所なのかな〜?」
「どこが自分に跳ね返って来たんだろ〜?」


と自分で自分をよ〜く見てあげること
の方が大切だと私は思うのです。


自分を見てあげること
それが『自分のお世話』です。


生まれてから天に還るまでの間
不安と迷いの世の中を自分という孤独と共に
他者と関わりながら生き続けるあなたには
お世話が必要です。


いついかなる時も
あなたのそばに居る人、
それはあなたです。


あなたのお世話に
最も適している人、
それはあなたです。


だからこそ
あなたの、あなたによる、あなたの為の
お世話が必要なのです。


求め過ぎる心が悪いのではないのです。
求める心を持つ自分が放置されて
寂しくて、悲しくて、膨れ上がった結果、
求め過ぎてしまっただけです。


自分から目を離さず、慈愛を持って見てあげれば
あなたの求め過ぎていた心は、本来の姿を取り戻し、
あなたも疲弊することは少なくなります。


余分に過ぎたものが
心の中にあったとしても
無駄ではないのです。


他人との関わりを通して
自分をお世話することを
学ぶことができます。


それこそが
人間が人間たるヒントではないかな?
と僕は思う訳であります。


私たち人間の中から
求める心を消すのは至難です。


だから求め過ぎて疲弊しないように工夫する、
だからこそ自分をお世話してゆく、
それで良いではないですか😉


皆さまの『自分のお世話』を
心から応援しております。