医師 黒木 弘明

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二〇二四年 五月二日(木)

綴りごと 想いごと

求める心(続編)

 

ひょっとしたら、私たちは気づかないうちに、

勘違いをしているかも知れないよね。


自分の要望が叶うと、自分が受け容れられた!自分は愛されている!と感じて、逆に自分の要望が叶わないと、自分が拒絶された!存在が否定されている!と(反射的に)感じてしまう私たち人間。


でも本当はどうなんだろう???


愛しているなら要望を叶えてくれるはずだ!という想いは、例えて言うならば、ライオンなら無敵のはずだ!俳優なら金持ちのはずだ!というのと同じかも知れないね。イメージであってリアルではないね。


誰もが愛されることを求める余り、自分の要望に固執したり、自分の要望が叶わないことに激昂したりするけど、実は自分が愛されていること(相手を愛していること)と、自分の要望が叶うこと(相手の要望を叶えること)は、似ているかも知れないが別物なんだね。


愛される=受容=願いが叶う=要望が通る、というのはあくまでも、何処かで刷り込まれたイメージ、盛られたイメージ(幻想)であって、リアルではないよ。


そう、私たちの中に蓄積したイメージが、リアルの生活では通用しない誤差を生んでしまうし、その誤差に私たちは悩んでいるのかも知れないね。


今度は逆に、自分の要望がドンドン叶ってしまう場合はどうだろう?幸せそうに見えるけどね、憧れるけどね。


自分の願いが叶い、思い通りになることが続くと、それを自分が(神のような偉大な存在から)愛されている証拠だ!自分が優れた(選ばれた)存在である証だ!と思ってしまうのが人間。そして、その快感を容易には忘れられなくなってしまうのも私たち人間。


自分の要望が叶った時に生じる興奮(ドーパミン)に酔ってしまうのが人間で、それ以上にもっともっと沢山、永遠に欲しくなってしまうのだ。減っていくこと、削いでいくことに耐えられない。見た目は華やかでも内面的には荒野。これもやはり辛いものがある。


私たち人間の中には、愛されたいという「求める心」があるので、自分が愛されている形や証拠を求め、さまよってしまう。その結果、悩ましい感情を抱くことになってしまう。(楽園でイブが食べた果実に含まれていたのは「求める心」だったのかも知れないね)


しかしながら、

私たちは自分が愛されていることを

毎日証明する必要が本当にあるのだろうか?

この世に生まれ、今を生きている

という真実以上に強力な証拠が

一生の間に、果たしてどれくらい見つかるだろうか?


【結論】

あなたの存在が愛されていることと、

あなたの要望が叶うことは別物であり、

そもそも別次元の話なのだ。

そのふたつを無理くり一緒にすると、

求める心が膨れ上がり重くなって、

貴方も周りも苦しくなるから、気をつけなくっちゃね。