医師 黒木 弘明

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二〇二四年 四月一九日(金)

綴りごと 想いごと

教育に礼節を

嫌いなもの・残念なものにも愛は見つかる。
ただそれを憎まなければ。
僕が、もう20年以上前から言い続けてきたことが、
今世の中がこのように強力に変遷してきて、
やっとそれが露わになってきた感があります。
一連のウイルスの影響で、
社会のオンライン化が急速に進んで、
Liveまでも文字通りLive配信になりました。
大学などの教育機関の授業までもです。
これまで教室や講堂という限られた空間に
(いわば閉じ込められて)聴講していた授業が、
パソコンやスマートフォンの画面から
視聴されるようになりました。
つまりこれは、教育機関の授業が、
YouTubeやAmazonプライム、Netflixなどと
同じ土俵に立たされたことを意味しています。
教育機関の偉い先生方には、
全くそんなつもりは無いと思いますが、
現実には、教育機関の先生たちのライバルは、
ヒカキンさんであり、エド・シーランさんであり、
黒澤明さんでもあり、志村けんさんとなったのです。
つまんないと観ない。
惹きつけるものがないと観てても画面消音。
逆に、心を打つものが有れば、食い入るように観る。
内容も忘れないので記憶力テストは要らない。
20年以上前から僕が言っていたこと。それは
教育にもエンターテインメント性が求められるよ、
ということでした。
人前でメッセージを発信するんだから、
声、姿勢、表情、風貌、佇まい、言葉の選択など
全てが視聴者にメッセージとして届いているのは、
当たり前のこと。
しかし、それを無視した
乱暴な動画のような授業を、
偉いと呼ばれる先生たちが展開するのが
僕には信じ難かったのです。
僕の目の前を過ぎ去っていった偉い先生たちに、
もう少しで良いから、
エンターテインメント性を意識して欲しかった。
講堂に立つだけで、チャンネルを変えたくなるような
先生たちが多過ぎて、見てられなくて、
僕はとても苦しかった。
エンターテインメント性の著しい欠如は、
ある意味、観る者聴く者の存在を無視した
一種の非礼だと僕は感じていた。
そんな先生の授業を受けると、
まるで自分がネグレクトを受けているようで、
とても苦しかった。
だから、
教室や講堂から1秒でも早く飛び出たかったし、
そもそも行きたくなかったし、
僕はテストにさえ怒りを覚えていた。
偉い先生は偏差値は高いかも知れないが、
愛の表現が驚くほど下手な人が多く、
それに吐き気を覚えていたのが
若かりし日の僕。
他方、市井の世界では、
喫茶店のおばちゃんが
僕を珈琲一杯でもてなしてくれた後に
珠玉のアドバイスをくれたり、
電話で呼び出されて行ったスナックのママの
意味不明に思えるエンドレスな世間話の中に
財宝のような話があったり、
CDやMDやカセット、ラジオ放送の中から
この世を去ったブルーズ・マンが
歌った唄が流れてきて
僕の心を慰めてくれたものだった。
どんなに僕が未熟でも、
こちらの世界の大人たちは、
僕のことを意識してくれた。
僕の存在を認めてくれた。
そんな彼らには
一種のエンターテインメント性があり、
礼節と想像力があったように思う。
市井の人の中にフツーに愛があった。
そこに偏差値は無関係だった。
教育機関に限らず、誰であっても、
メッセージを発信するという行為自体、
それを受け取る側の人に敬意を払う
ということであり、言い換えれば、
愛を届けるということに他ならない。
そして今、画面の前に立つ人が、
偉い人かどうかは関係ない。
年が上かどうかも関係ない。
収入とか、ルックスとか、そういう問題じゃないし、
霊感があるかどうかも無関係。
ましてや、グループワークの授業だから
双方向コミュニケーションです、
と言っている次元じゃないです。
そんな枝葉ものを超えて、
惹きつけるものが有れば観るし、
聴くし、覚えるし、忘れないのだ。
それこそが愛です。
僕たちは
教室の規則や成績・進級・評価の恐怖で
縛られたいのではなく、
ただ愛で惹きつけられたいのだ。
愛に触れたいだけなのだ。
このように20年以上前から、
エリート意識に溺れた一部の大人たちの、
愛の無さを指摘している僕は今
果たして自分が、
愛ある配信を出来ているのだろうか?
という問題に向き合っています。
つまり、
自分の中の愛に
着目し続けようと思っています。
誰がどうのこうのではなく、
他人がどうしたとかでもなく、
これは正に自分の問題だ!
と思えるようになったのも
実は、
あの嫌いだった大人達からの
20年越しのプレゼントだったのです。
あの講堂で聴き続けた、
エンターテインメント性マイナス3000点の、
拷問のような授業さえも、
あれも形を換えた愛だったのです。
あの大人達とは好みが合わないので、
僕は彼らのことを好きにはなれないけども、
それでも感謝を覚えるようにはなりました。
嫌いなもの・残念なものにも愛は見つかる。
ただそれを憎まなければ。
ありがとう。
(完)
※約4年半前の写真です。