医師 黒木 弘明

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二〇二四年 四月三〇日(火)

綴りごと 想いごと

心の音色

人様の心に触れることを生業をしていると、

多くの人に共通した一定のリズムがあること

に気づきます。


当たり前ですが、

訪れる人は困っている時に(僕の所に)

やってくるのですが、困っている時は案外と強気です。

あれが悪い、これに困っているから何とかしたい、

問題の原因をどう処置すべきか?など、

大なり小なり潜在的な怒りを携えている。

だから強気と困惑の狭間にいる。


この時期に「〜すれば原因に対処できますよ」などと

正論を返しても焼け石に水、効き目が殆ど無い。

あっても問題は程なく繰り返されるばかり。

多くの人はこの強気の峠を

強気に乗り切ろうとするのだが、

そのせいでかえって

峠が越せずに居るようにお見受けする。

もちろん気分もアップダウンし続けていることが多い。


運良く(誰かの支援を得るなどして)誰も傷つけずに

安全な場所で強気を吐き尽くした人、

或いは、強気では峠を乗り越えられないと感じた人、

知識や理論、理屈、根性、モラル、常識などの

強気一辺倒では問題を解決できない

と痛感した人は、実はその瞬間

本人も気付かぬうちに強気の峠を越している。


その人たちからは、正直な弱音が聞こえる。

「実は〜が心底怖かったのです」とか

「私は〜の状況がとても嫌だったのです」

などのような、強気とは似ても似つかない、

正直な弱音と涙がこみ上げ、滲み出し、漏れてくる。

これを僕は『ブルーズ』と勝手に呼んでいる。


この弱音(ブルーズ)が出続けると、

次第に涙の純度が高くなってくる。

初期には、怒りや悔しさ混じりの涙で、

他人を意識した感情的な涙であったものが、

やがて自分自身に向かう、

素直で純度の高い、澄んだ美しい涙となっていく。

それは純粋な自分の今を現したものである。

この純度の高い涙は老廃物ではないので

流れて消えたりはしない。

むしろ自分の心の周りに留まり、

泉となり、湖となり、海となって

自分の心を護る役割を担うこととなる。


ここまで来ると、

あとは心の自然の摂理に準じて

ことがゆっくりと運ぶ可能性が生まれるのだが、

全く油断はできない。

うっかり慢心すると振り出しに戻る。

順調に進む場合も振り出しに戻る場合も、

いずれにしても人間の持つ『良心の作用』が

現れやすくなり始めると思われる。


心の中に混じる感情の起伏、

怒りや怖れの峠を乗り越え、

純粋で美しい涙の海からやって来た人から

聞こえてくるのは

『本来の自己表現としての本音』である。


怒る自分や、途方に暮れる自分が消えた訳ではないが、

その自分を捉えている自分がいる。

初めはさまざまな感情がバラバラで

疲労困憊することがあっても、

心の練習を繰り返すことで、

苦にならない自分を組み立ててゆく。

偏らない自分を築き上げてゆく。

その自分は自分本来の調子を取り戻しているので、

自分生来のリズムを奏でている。

僕はこれを『本音』と勝手に呼んでいる。

本来の音、すなわち本音が聞こえてくる人は、

後は人間の良心(仏性というのかな)に

従って、ありのままに進んでゆくだろう。


しかし、これで全てが完結した訳ではなく、

数ある中の一つのチャプターが区切られたに過ぎない。

一つ一つのチャプターを描きながら、

人間の一生という物語を生きている私たち

であることには変わりがない。


そんな訳で僕は、

人の心からブルーズが生まれ、純粋な涙が海となり、

そこからその人の本来のリズムを取り戻す過程を、

あくまでも本人の邪魔をしないように、

過保護にならないように、

慎重に手伝っているつもりだ。

とにかく人間の持つブルーズは繊細であり、

その本音は心の遥か奥に秘められているのだから。