得と益
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情報を得て、知識を増やして、
上手くやって行くために知恵を絞ることで、
自分の得にはなると思います。
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厳密に言うと、
それにより自分の願望や欲求、五感が
満たされると言う意味で「得」になる
と思います。
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それは全く結構なのですが、
努力をして知恵を絞って、
その結果自分(の五感)が満たされて、
得をして悦ぶ人も居られるその一方で
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自分の五感が満たされることで初めて、
自分の心が『満たされていないこと』に
愕然と気付く人も一定数、居られます。
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自分の要望、願望、願い、欲求が満たされているのに、
自分の心が空虚だという事実は、
にわかには認めがたいと思いますが、
心の空虚さはそう長くは誤魔化せないことが多いです。
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だとすれば一体、他に何をすれば?
どうすれば良いのでしょうか?
と狼狽する人は、とても素直な人ですので、
その先の道に進みやすいです。
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たとえば、
犬に餌を与え続けていれば、
それは犬を飼っていることにはなるでしょう。
しかし、それだけでは
犬という命をお世話し、犬という命と心を通わせ、
犬という命と暮らしていることにはならないでしょう。
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今あなたは何をしていますか?
あなたは自分を飼っていますか?
それとも自分という命と
心を通わせて共に暮らしていますか?
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自分と心を通わせるには、
自分の要望・願望・欲求・五感を
(餌を与えるように)満たすことでは完遂できません。
多くの方が心だと思っているのは、
自分の感情のかたまりであり、
自分の五感の集合体です。
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自分と心を通わせるには、自分と暮らすには、
当たり前ですが、自分の心を探し、
自分の心に触れることから始めましょう。
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日々交錯する玉石混交の情報、お得な情報、
乗り遅れない為の最新情報、損をしない為の処世術など、
自分の外からやってくる刺激に
(無防備に)自分を晒していると、
私たちの五感はそれに反応し続けてしまい、
過剰に興奮を続けてしまいます。
またそのリズムに慣れてしまうと、
過剰な興奮が普通の状態なのだと、
いつしか錯覚してしまいます。
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その錯覚が冷めるキッカケとしては、
自分にとって何かがおびやかされるような出来事、
ショッキングな出来事が発生した時が多いです。
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楽しかった幻から醒めるので、
五感中心の自分は、この出来事を嘆き悲しみ、
さらには怒りさえもを覚えて、
どうにかして再び感情中心の世界に戻ろうとします。
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片や、過剰な興奮によって
造り出された五感の幻から目が醒めることを、
心の自分は歓迎しています。
願わくば、そこから軌道修正して、
本来の自分、自分の心を取り戻して欲しいと願うでしょう。
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慣れ親しんだ、感情中心の世界に引き返すか
まだ見ぬ、心と出逢う旅に出るか。
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善も悪も、徳も罪も、
呼び名はどうでもよろしいことです。
あなたの好きな方角に行けば良いのです。
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自分を見つめ、お世話をし、
自分を大切にし続けていると、
本来の自分とは関係の無いものが、
いつの間にか自分に巻き付いていることが
分かるようなります。
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その一つひとつを、
強引な思考によって引き剥がすのではなく、
自分を学ぶことによって、自分に無関係なものが
巻き付けないようになるのです。
あるいは、巻き付いても関係が無くなるのです。
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本来の自分と無関係なものから、
文字通り、無関係になるということでしょう。
受ける影響がゼロになるは言い切れませんが、
影響が最小限になるということでしょう。
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五感が悪者なのではなく、
五感には心を見出させる役割があるのです。
そこから本来の自分、自分の心と出逢い、
育ててゆくのです。
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そういうものを
「自分の(五感の)得」ではなく
『自分の(心の)益』
と言うのではないかな?
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自分の心を育てるのは
「得に繋がる知恵」ではなく
『益に繋がる智慧』ではないかな?
と思ったりしております。