医師 黒木 弘明

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二〇二四年 四月二五日(木)

綴りごと 想いごと

得と益

情報を得て、知識を増やして、

上手くやって行くために知恵を絞ることで、

自分の得にはなると思います。


厳密に言うと、

それにより自分の願望や欲求、五感が

満たされると言う意味で「得」になる

と思います。


それは全く結構なのですが、

努力をして知恵を絞って、

その結果自分(の五感)が満たされて、

得をして悦ぶ人も居られるその一方で



自分の五感が満たされることで初めて、
自分の心が『満たされていないこと』に
愕然と気付く人も一定数、居られます。


自分の要望、願望、願い、欲求が満たされているのに、

自分の心が空虚だという事実は、

にわかには認めがたいと思いますが、

心の空虚さはそう長くは誤魔化せないことが多いです。


だとすれば一体、他に何をすれば?
どうすれば良いのでしょうか?
と狼狽する人は、とても素直な人ですので、
その先の道に進みやすいです。


たとえば、

犬に餌を与え続けていれば、

それは犬を飼っていることにはなるでしょう。

しかし、それだけでは

犬という命をお世話し、犬という命と心を通わせ、

犬という命と暮らしていることにはならないでしょう。


今あなたは何をしていますか?
あなたは自分を飼っていますか?
それとも自分という命と
心を通わせて共に暮らしていますか?


自分と心を通わせるには、

自分の要望・願望・欲求・五感を

(餌を与えるように)満たすことでは完遂できません。

多くの方が心だと思っているのは、

自分の感情のかたまりであり、

自分の五感の集合体です。


自分と心を通わせるには、自分と暮らすには、
当たり前ですが、自分の心を探し、
自分の心に触れることから始めましょう。


日々交錯する玉石混交の情報、お得な情報、

乗り遅れない為の最新情報、損をしない為の処世術など、

自分の外からやってくる刺激に

(無防備に)自分を晒していると、

私たちの五感はそれに反応し続けてしまい、

過剰に興奮を続けてしまいます。

またそのリズムに慣れてしまうと、

過剰な興奮が普通の状態なのだと、

いつしか錯覚してしまいます。


その錯覚が冷めるキッカケとしては、
自分にとって何かがおびやかされるような出来事、
ショッキングな出来事が発生した時が多いです。


楽しかった幻から醒めるので、
五感中心の自分は、この出来事を嘆き悲しみ、

さらには怒りさえもを覚えて、

どうにかして再び感情中心の世界に戻ろうとします。


片や、過剰な興奮によって

造り出された五感の幻から目が醒めることを、

心の自分は歓迎しています。
願わくば、そこから軌道修正して、

本来の自分、自分の心を取り戻して欲しいと願うでしょう。


慣れ親しんだ、感情中心の世界に引き返すか
まだ見ぬ、心と出逢う旅に出るか。


善も悪も、徳も罪も、
呼び名はどうでもよろしいことです。
あなたの好きな方角に行けば良いのです。


自分を見つめ、お世話をし、

自分を大切にし続けていると、

本来の自分とは関係の無いものが、

いつの間にか自分に巻き付いていることが

分かるようなります。


その一つひとつを、
強引な思考によって引き剥がすのではなく、
自分を学ぶことによって、自分に無関係なものが
巻き付けないようになるのです。
あるいは、巻き付いても関係が無くなるのです。


本来の自分と無関係なものから、
文字通り、無関係になるということでしょう。
受ける影響がゼロになるは言い切れませんが、
影響が最小限になるということでしょう。


五感が悪者なのではなく、
五感には心を見出させる役割があるのです。
そこから本来の自分、自分の心と出逢い、
育ててゆくのです。


そういうものを
「自分の(五感の)得」ではなく
『自分の(心の)益』
と言うのではないかな?


自分の心を育てるのは
「得に繋がる知恵」ではなく
『益に繋がる智慧』ではないかな?
と思ったりしております。