医師 黒木 弘明

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二〇二四年 五月八日(水)

綴りごと 想いごと

努力とは

 

結論としては
他者をより深く、より温かく理解するための体験や
自分が全知全能だと勘違いしないための体験が
努力なんじゃないかという僕の説。

 

 

努力を重ねた結果、できなかったことが
できるようになった人も居るでしょう。
努力が万能のパスポートだと信じる人も居るでしょう。

 

 

それはそれで良いと思うんです、思想だから。
あくまでも、その人の思想ってだけで、
全てに適用できる法則かどうかはまた別。

 

 

だから、努力をして望む結果を得た人が
望む結果をまだ得ていない人に対して

 

 

「何で努力できないの?」
「努力しないから得られないんだよ」
「努力できないのが理解できない」

 

 

なんて言うのは、なんかとっても
ピントがずれている気がする訳です。
努力って、人を見下す許可証じゃないと思うんだ。

 

 

毎回、僕なりの定義で恐縮ですが、
努力というのは、

 

 

他者への理解を深めるための
体験ではないかな?と。
他者への洞察や心配りを深めるための
体験ではないかな?と。

 

 

努力を経て、望む結果を得る人も居れば、
努力を経ても、望む結果を得ない人も居るし、
そもそも努力そのものが苦痛という人も居る。

 

 

自分と同じような努力を
他人が出来るとは限らないし、
自分の努力が全ての人が抱える問題の
参考や特効薬になるとは限らない。

 

 

世の中、色んな場合があるんだから、
自分が全知全能だと勘違いをしないように
するための体験が努力なんじゃないかな?

 

 

努力を重ねて望む結果を手に入れて
自分に自信を持つということは素晴らしい。
でもそれで他者への理解が乏しくなるなら、
それは無明。それは僕的には努力不足。

 

 

自分の努力を支えてくれた人がいる。
自分の努力は自分だけのものではない。
自分ひとりの努力の結果のようでいて、
実はそうではない。みんなの結果なんだから。
手柄を独り占めして、ドヤ顔したって不恰好だよ。
努力に苦しむ人への共感力が下がるなら、
どんなに成功したとしても、それは努力不足。

 

 

「そうか…君には君の大変さがあるんだね…」
「君は君で、とても勇敢に生きてるんだね…」
「誰も君を責めることはできないよ…」
「僕にできることはあるかい?」

 

 

そんな風に
温かい気持ちが拡がっていかなきゃ、
眼差しが深く拡がっていかなきゃ、
どんな努力も、どんな成功も
さほど魅力的に映らない、僕には。

 

 

なんてね。