医師 黒木 弘明

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二〇二六年 六月二九日(月)

綴りごと 想いごと

冒険譚

 

幸せって何だ?
ワクワクって何だ?

 

 

今日宝くじ1等が当たること?
映画の主役に抜擢されること?
テストで満点取ること?
それも有りだね。

 

 

それなら、
宝くじ1等が当たらない日々は不幸?
ドラマの脇役を貰ってもワクワクしない?
テストで39点を採るのはダメなこと?

 

 

このように、自分に降り注ぐ出来事によって
自分の幸せ・不幸せを決めてしまうと、
自分が出来事に振り回されてしまうんじゃないかな?

 

 

出来事によって夢が叶うと定めてしまったり、
出来事によって自分の幸せを決めてしまうのは、
「私は出来事によって自分のメンタルが
右往左往してもいいんです!」って、
宣言していることにはならないだろうか?

 

 

たとえば、嫌な出来事が起きる。
感情が沸き、メンタルが揺れる。
嫌な出来事を消し去りたくなる。
思い通りにいかないから、メンタルが揺れる。
出来事に振り回されてしまう。

 

 

逆に、幸せそうな出来事が起きる。
うれしい、うれピー、楽しい、恍惚、
それが長く続いて欲しい、消えて欲しくない、
でも思い通りにいかないから、メンタルが揺れる。
やっぱり出来事に振り回されてしまう。

 

 

幸せって、出来事なんだろうか?
ワクワクって、出来事なんだろうか?
出来事にそこまで頼ってて良いのかな?
それでは僕の人生は、出来事を浴び続けた僕が
感情を揺さぶられるだけの日々の集積になってしまう。

 

 

その人生の主役は、僕じゃなくて
出来事と感情になってしまう。
僕は感情のサンドバッグになってしまう。
そんな人生を僕は生きたいとは思わない。

 

 

確かに僕の人生は、出来事の連続ではあるが、
出来事に対する自分の解釈と選択によって
人生の味わいを最終的に僕が決めることができる
と僕は信じている。信じていたい。

 

 

だから、嫌な出来事があったら、
嫌だと感じる自分を改良してみたくなる。
だって出来事は只の出来事で、そこに反射的に
僕の感情が「嫌だ!」と脚色してるんだから。

 

 

出来事に反応する感情主体の人生から
自分基盤の人生を取り戻す挑戦。
出来事と感情からの独立。
自分にかけられた封印を自分で解除する。

 

 

もちろん、落ち込んだ自分を改良出来ないことも
多々あるし、全然あって良いとも思ってる。
そもそも僕のメンタルは、そんな鋼ではないし、
自分を改良出来ないという出来事に
僕が落ち込むというトラップには
これまで何度もハマってきたもんね。

 

 

幸せというのは、
出来事を幸せに味付けできる、
自分の状態ではないだろうか?

 

 

日々の出来事と、それに反射的に呼応する感情から
自分を独立させ、揺さぶられにくい自分を
生み出すための容易ならざる長い道のりを、
幸せと呼んでも良い気がするのです。

 

それはまるで、物語に出てくる悪役キャラクターを
自分の仲間に引き入れてしまうような
壮大な冒険譚なのです。

 

 

僕らは、自分の人生の舵取りをする自由を
与えられているような気がするのです。
だからその大切な舵取りを、むざむざと
出来事と感情に譲ってしまうのは、
少しもったいない気がしているのです。

 

 

自分で人生の舵取りを目指していくこと、
自分の直感と自分の理屈で生きようとすること、
そこに何だか僕は、夢見る力と、
幸せとワクワクを感じるんです。