元から断つ
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たとえばの話、歯が痛くなるとしましょう。
痛み止めを飲めば一時的に痛みは治るかもしれないが、
歯痛の元となった原因はそのままになっている。
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そこで一歩踏み込んで、
歯を調べると虫歯があったので、
頑張って治療に通えば、しばらくの間、
虫歯は無くなるかも知れない。
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が、なぜ虫歯が出来たか?
は分からないままになっているので、
さらに一歩踏み込んでみると、
歯磨きの習慣が疎かだったとか、
歯間を磨いていなかったとか、
歯磨きの仕方が適切ではなかったことが
分かったので、詳しい人に(知識を)教えてもらう。
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ここまですればもう大丈夫だろう、
と思って、かつての歯痛を忘れていると、
いつの間にかまた再び歯が痛くなる。
「またかよ」と思うと同時に
「もう繰り返したくない」と思うので、
自分の胸に手を当ててみる。
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すると、仕事や何やかんやで忙しくなると、
歯磨き(だけにとどまらず、食生活や自分ケア全般)を
手抜きしてしまう自分が居たことが分かった。
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しかし、念には念を入れて、
自分の心の中にもう一歩深く踏み込んでみると、
仕事や生活を理由にして、
自分という存在を優先できないこと、
自分を大切に出来ていないことが分かった。
つまり、自分を愛せていないことが分かった。
そこで勇気を出して協力者の助力を頼みながら、
自分の心の扉を開いてみることにした。
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そうすると、
自分で自分は罪深い存在だ、
と思い込んでいることが分かってきた。
だから自分という存在を大切にする価値がない
と思っていたのか、と少し納得する。
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それは幼い頃に、あるいは大人になってからも
「だから君はダメなんだ」とか
「成果を上げなければ君は只の人」などと、
誰かから言われ、ありのままの自分を(自他共に)
受け容れられなかったことで生じた、
悲しみや怒りなどの感情が
自分でうまく表現・処理できないまま、
心の中で滞留して残ってしまい、
自分が傷ついていたことが分かった。
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しかしながら原因探しばかりで、
誰かのせいにしたり、誰か責めたり、
誰かを裁いてばかりでは、
何の解決策にもならないことに気づき
(知識や原因究明は手がかりにはなるが、
それと解決策とは別物であるので注意が必要である)、
自分の思考を過去から今に切り替えた。
何故そうなったのか?よりも、今からどうするか?
の方が遥かに大事なのである。
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だから、これからは事あるごとに
自分の気持ちを確かめて、
少しずつ自分を優先できるように、
自分で日常生活の中で意識して練習することにした。
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そんな訳で「元から断つ」とは、
「表面的なことで解決したような気分にひたるのではなく、
困難という(自分の中の問題の)氷山の一角が
顔を出してきたら、それを好機と捉えて逃さず、
勇気を出して(様々な助力を大いに活用しながら)
自分という氷山の深層まで遡って、
根源的なところから、思い切って
自分の在り方を軌道修正してみること」
だと私は考えている。
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これは確かに面倒くさい作業なので、
大変不人気な作業ではあるが、
人生という『与えられた奇跡の時間』を
活用するに充分値する作業だと私は思っている。
人生をかけて自分を癒すということです。
(尚、私の生業の一部はそのお手伝いです)
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病いは専門家が一時的に治してくれるかも知れないし、
他人は慰めを与えてくれるかも知れないのですが、
それは治療と慰めの話し。
そこで終わりにせず、そこを出発点として
勇気を出して『癒し』を見つけに参りましょう。
本当の『癒し』は、やはり自分の中から湧き上がります。
それが私たちが愛なる存在である証拠です。
(完)