医師 黒木 弘明

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二〇二四年 四月二六日(金)

綴りごと 想いごと

元から断つ


たとえばの話、歯が痛くなるとしましょう。

痛み止めを飲めば一時的に痛みは治るかもしれないが、

歯痛の元となった原因はそのままになっている。


そこで一歩踏み込んで、

歯を調べると虫歯があったので、

頑張って治療に通えば、しばらくの間、

虫歯は無くなるかも知れない。


が、なぜ虫歯が出来たか?

は分からないままになっているので、

さらに一歩踏み込んでみると、

歯磨きの習慣が疎かだったとか、

歯間を磨いていなかったとか、

歯磨きの仕方が適切ではなかったことが

分かったので、詳しい人に(知識を)教えてもらう。


ここまですればもう大丈夫だろう、

と思って、かつての歯痛を忘れていると、

いつの間にかまた再び歯が痛くなる。

「またかよ」と思うと同時に

「もう繰り返したくない」と思うので、

自分の胸に手を当ててみる。


すると、仕事や何やかんやで忙しくなると、

歯磨き(だけにとどまらず、食生活や自分ケア全般)を

手抜きしてしまう自分が居たことが分かった。


しかし、念には念を入れて、

自分の心の中にもう一歩深く踏み込んでみると、

仕事や生活を理由にして、

自分という存在を優先できないこと、

自分を大切に出来ていないことが分かった。

つまり、自分を愛せていないことが分かった。

そこで勇気を出して協力者の助力を頼みながら、

自分の心の扉を開いてみることにした。


そうすると、

自分で自分は罪深い存在だ、

と思い込んでいることが分かってきた。

だから自分という存在を大切にする価値がない

と思っていたのか、と少し納得する。

それは幼い頃に、あるいは大人になってからも

「だから君はダメなんだ」とか

「成果を上げなければ君は只の人」などと、

誰かから言われ、ありのままの自分を(自他共に)

受け容れられなかったことで生じた、

悲しみや怒りなどの感情が

自分でうまく表現・処理できないまま、

心の中で滞留して残ってしまい、

自分が傷ついていたことが分かった。

しかしながら原因探しばかりで、

誰かのせいにしたり、誰か責めたり、

誰かを裁いてばかりでは、

何の解決策にもならないことに気づき

(知識や原因究明は手がかりにはなるが、

それと解決策とは別物であるので注意が必要である)、

自分の思考を過去から今に切り替えた。

何故そうなったのか?よりも、今からどうするか?

の方が遥かに大事なのである。


だから、これからは事あるごとに

自分の気持ちを確かめて、

少しずつ自分を優先できるように、

自分で日常生活の中で意識して練習することにした。


そんな訳で「元から断つ」とは、

「表面的なことで解決したような気分にひたるのではなく、

困難という(自分の中の問題の)氷山の一角が

顔を出してきたら、それを好機と捉えて逃さず、

勇気を出して(様々な助力を大いに活用しながら)

自分という氷山の深層まで遡って、

根源的なところから、思い切って

自分の在り方を軌道修正してみること」

だと私は考えている。


これは確かに面倒くさい作業なので、

大変不人気な作業ではあるが、

人生という『与えられた奇跡の時間』を

活用するに充分値する作業だと私は思っている。

人生をかけて自分を癒すということです。

(尚、私の生業の一部はそのお手伝いです)

病いは専門家が一時的に治してくれるかも知れないし、

他人は慰めを与えてくれるかも知れないのですが、

それは治療と慰めの話し。

そこで終わりにせず、そこを出発点として

勇気を出して『癒し』を見つけに参りましょう。

本当の『癒し』は、やはり自分の中から湧き上がります。

それが私たちが愛なる存在である証拠です。

(完)