休息とは
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美しい貴方を眺め、美味を口にして、
素敵なものに触れている…
そんな無上の悦びを五感が連れてくるので、
人間という不器用な生き物の私は、
いつしか五感の生んだ悦に浸って、
自分と五感の区別がつかなくなってしまう。
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まるで五感の悦が無ければ生きてはいけない、
それが無ければ自分では無いかのような
倒錯を起こしてしまう。
五感で知覚して初めて生じる体験、
初めて分かることの数々。
それであれば
五感が全ての源ということになりますが、
本当にそうなのでしょうか?
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私が体験した美味なるものも、
私が出逢った美しい貴方も、
実は私が出逢う前から
私の傍に在った『愛なる存在』のように
(私は個人的に)感じるのです。
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これまで五感で感じることがなかった
というだけのことで、
それが何かの拍子に(縁起によって)五感が働き、
『愛なる存在』を私が知覚しやすいように
顕在化してくれただけなのかも知れない、
と私は感じるのです。
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五感に頼りっきりになってしまうと私たちは、
たとえ自分の五感が感知しなくても
『いつも愛の中に居る』
という自分たちの本当の姿を忘れてしまい、
さらには五感が感知しない限りは
『愛』を信じることが
できなくなってしまうと思います。
それが「怖れ」であり、
多くの病と苦しみの元となるものです。
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空腹を徒らに飲食によって紛らわし、
世渡りや他人との交遊に没頭し、
自分の内面を忘れて外の世界ばかりに関心を持ち、
苦悩する時も悩み事に翻弄され、
苦悩の元を知ろうとせず、
そこから免れるための手立てばかりを求め、
世間や他人を悪く言うこと状態のことを、
「迷い」と言うのだそうです。
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そうして見渡せば、ほとんどの人が迷ってる。
私たちが愛を感じるために与えられた
五感によって、皮肉なことに私たちの方が
逆に支配され、翻弄されている状態に
陥っているのかも知れません。
(映画「マトリックス」はこの辺りを
描写している気がします)
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だから敢えて、使い過ぎた五感を鎮めることで、
張り詰めた五感を緩めることをして、
五感から溢れた出た幻想を追い求める欲を見直し、
見失いかけた自分を再び取り戻し、自分に還る、
というのはどうだろう?
それこそが本当の休息だと思うのです、私は。
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なお、全ての源は五感ではなく
自分自身であり、愛である
とも感じています、私は。