医師 黒木 弘明

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二〇二四年 五月二日(木)

綴りごと 想いごと

休息とは

美しい貴方を眺め、美味を口にして、

素敵なものに触れている…

そんな無上の悦びを五感が連れてくるので、

人間という不器用な生き物の私は、

いつしか五感の生んだ悦に浸って、

自分と五感の区別がつかなくなってしまう。


まるで五感の悦が無ければ生きてはいけない、

それが無ければ自分では無いかのような

倒錯を起こしてしまう。

五感で知覚して初めて生じる体験、

初めて分かることの数々。

それであれば

五感が全ての源ということになりますが、

本当にそうなのでしょうか?


私が体験した美味なるものも、

私が出逢った美しい貴方も、

実は私が出逢う前から

私の傍に在った『愛なる存在』のように

(私は個人的に)感じるのです。


これまで五感で感じることがなかった

というだけのことで、

それが何かの拍子に(縁起によって)五感が働き、

『愛なる存在』を私が知覚しやすいように

顕在化してくれただけなのかも知れない、

と私は感じるのです。


五感に頼りっきりになってしまうと私たちは、

たとえ自分の五感が感知しなくても

『いつも愛の中に居る』

という自分たちの本当の姿を忘れてしまい、

さらには五感が感知しない限りは

『愛』を信じることが

できなくなってしまうと思います。

それが「怖れ」であり、

多くの病と苦しみの元となるものです。


空腹を徒らに飲食によって紛らわし、

世渡りや他人との交遊に没頭し、

自分の内面を忘れて外の世界ばかりに関心を持ち、

苦悩する時も悩み事に翻弄され、

苦悩の元を知ろうとせず、

そこから免れるための手立てばかりを求め、

世間や他人を悪く言うこと状態のことを、

「迷い」と言うのだそうです。


そうして見渡せば、ほとんどの人が迷ってる。

私たちが愛を感じるために与えられた

五感によって、皮肉なことに私たちの方が

逆に支配され、翻弄されている状態に

陥っているのかも知れません。

(映画「マトリックス」はこの辺りを

描写している気がします)


だから敢えて、使い過ぎた五感を鎮めることで、
張り詰めた五感を緩めることをして、
五感から溢れた出た幻想を追い求める欲を見直し、
見失いかけた自分を再び取り戻し、自分に還る、
というのはどうだろう?
それこそが本当の休息だと思うのです、私は。


なお、全ての源は五感ではなく
自分自身であり、愛である
とも感じています、私は。