医師 黒木 弘明

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二〇二四年 三月二九日(金)

綴りごと 想いごと

一生もの


恥ずかしながら僕は
『一生もの』ということが
分かっていなかった訳です。


いや、「一生もの」という
言葉の意味は知っていました。
それどころか、その言葉の意味を分かっていた
と言っても良いかも知れません。


しかし、
知っているのと
分かっているとは
違うもの。


ましてや、
言葉の意味を分かっているのと
分かった上で行動するのとでは
雲泥の差があるのです。


ですから、
言葉の意味を知っているのと
理解した上で行動するのとでは
天と地ほどの差があると言えましょう。


僕の『一生もの』の話
に戻りましょう。


その昔僕は『一生もの』と呼ばれるものを
頑張ってお金を出して購入し、
所有していたつもりでした。


『一生もの』と呼ばれるものには
特有の美しさがあり、まず僕は
それに心底惹かれたのです。


その物が生み出される際に携わった
全ての関係者の全てのエネルギーの総和が
その物に命を吹き込むのでしょう。


さらに『一生もの』と呼ばれるものは
品質が良いので一生もつ、
つまり耐久性に優れている、
そう言う意味でもあると思っていました。


また別の意味では
使い捨てには出来ないほど高級なもの
という意味合いも有るのかも知れません。


僕の理解はその程度でした。
(実に幼いというか、浅いのです・笑)


まず、自分がお金を払ったのだから
その物を自分が所有している、と言う感覚。


所有?
既にそこが間違っていたのです。


たとえ自分の財布から出したお金を
支払ってその物を購入したとしても
それは真に自分の所有物にはならない。


お金を払ったから手に入れたのだ、
お金が払った時に手に入れたのだ、
と本人が思いたいだけ。


お金が真の対価には非ず
お金を支払った時に手に入る訳ではない。


手に入れる時
手に入る時というのは


読んで字の如し


手入れをする時
のことである。


手入れをする時から
物と自分の関係が
閑かに始まるのである。


人間関係でもそうだろう?


結婚したら2人の人間関係は完成か?
婚姻届を出したらゴールか?
結納したら相手を手に入れたことになるのか?


就職したら従業員は社長の所有物か?
給料払えば社員を所有することになるか?
部下は上司の子分か?
弟子は親分の捧げ物か?


生まれた瞬間子どもは親の所有物か?
親は子どもの人生に本当に責任が取れるのか?
親の言うことを聞いていれば
子どもの人生の幸せが保証されるのか?


違う。


婚姻届を出す時、家族となる時
入社する時、迎え入れる時
生まれる時、産む時
これ全て出発点なのだ。


物を買う為にレジでお金を支払う時は
買った物と付き合っていく権利を
得ているに過ぎず、この時点では
まだ何も所有した事にはならない。


その物と自分の関係が
灰塵と化すことないように
手入れをし続けてゆく、積み上げてゆく
という誓いを立てたに過ぎない。


手に入れる、というのは
所有する、ということではなく
手入れし続ける、ということなのだ。


だから『一生もの』を手に入れる
ということはどういうことか?


それはその物を
自分が一生かけて手入れし続ける
ということに他ならない。


お金をいくら支払おうが
手入れをしなければ
手に入れることはできない。


仮に、手入れし続けたとしても
自分が所有したことにはならず


手入れをする
という体験を得るために
その物を借用しているに過ぎない。


それが証拠に、自分が死ぬ時には
その物を持ってゆけない。


あの世に持って行けるのは
手入れし続けた、という経験のみである。


一生もの。


気安く憧れている場合ではなかった。
その言葉を羨ましがるうちは甘かった。
所有した安堵感は真ではなかったのだ。


一生手入れし続ける
という覚悟と行動が
問われているのだ。


それは愛である。


あの時『一生もの』に感じた美しさは
僕への問いかけであったことに今さら気づく。


見てるだけ知ってるだけ分かってるだけ
それではダメですよ。
一生愛を注げますか?
一生向き合えますか?


と問いかけられていた。


『一生もの』と呼ばれる物は
僕が一生手入れし続けて初めて
本物の『一生もの』になるのだろう。


とにかく、そんなことも分からずに
『一生もの』を迎え入れていた僕に
『一生もの』の鞄が笑いながらこう言った。


「やっと分かったか、おめでとう」


僕と『僕という一生もの』の関係は
まだ始まったばかり。
鞄を磨きながら僕はそう感じた。