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医師 黒木 弘明

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二〇二四年 四月二〇日(土)

私たちは、この世に命を受けて『生まれ』、様々な体験を咀嚼することで『学ぶ』ことができます。自分と向き合い、学びを積み重ねた時、それは何物にも代え難い『癒やし』となり、癒された命は水を得た魚のように『活躍』しはじめます。このように人間がこの世に生まれて、唯一無二の存在として活躍・創造してゆく過程を、私は『生学癒活』と名付けました。誰方であっても、人生の中に『癒やし』の種となる『学び』があります。それを探すお手伝い、いわば『学びの羅針盤』が私の生業です。

全てのものに愛を

多くの人にとって、易々と『癒やし』が訪れない場合があります。なぜなら、癒しの種である『学び』が十分に育まれていないからです。学びとは愛です。愛とは万能薬です。今、あなたが何かから学ぶことは、あなたが愛を受け取ることであり、あなたが愛を与えることであり、そしてあなたの周りに『愛の循環』を創ることに繋がります。どんな状況からでも、どんな人からでも、全てのものに宿る『愛』を、一緒に探してゆきましょう。

病と戦ってはならない

今の自分が望まないこと、ご病気やトラブル、悩みやストレス・葛藤など、思い通りにならないこと全般を、私は『病』と呼びます。もちろん、専門的な対処が必要な場合もあります。しかし、その病もまた『学びの種』です。病は『学びの種』を運ぶために、今あなたの元に訪れている可能性もあります。ですから私は、思い通りにならない病を駆除する、邪魔者を取り除く、病と闘う、という姿勢ではなく「病の声」を閑かに聴くことのお手伝いをします。あなたが病から何かを学べば、病はその使命を果たし、次なる未来へとバトンタッチしてゆきます。

独りではなくチームで

人間は誰しも必ず、どこかの集団に属しています。家族、職場、地域、国籍なども集団です。集団に属す個人に起きる様々な問題や不具合は、確かにその個人の問題には違いないのですが、実は同時に、その人が属している『集団の問題』を象徴していることが多いのです。ですから私は、ある特定の個人の問題が集団の問題に波及している場合は、関係者による『チーム』を必ず創ります。そして、その問題を深く見つめ、関係者みんなで学びを得るように促します。それが結果的に、『個人と集団の双方の癒し』に繋がってゆきます。人間は独りでは生きることが出来ない一方で、『学び』や『癒し』を共有することが可能なのです。

黒木 弘明

物心ついた時にはもう私は、「命や心について」考えていました。それは病弱だった私が母子家庭で育ち、幼い頃に妹を亡くしたことも、多少影響しているのかもしれません。思春期特有のもどかしさから、情緒が落ち着かない時期もありましたが、ある日祖母が明かした「母の影なる苦労」を知った時、頭が冷めて目が覚めて、「人様の命の役に立ちたい」と思うようになりました。(ちなみにその後、目が醒めたような経験をしたのは、15歳の頃エリック・クラプトンのCDを聴いた時でした)元々があまり前例にとらわれない性格であったので、私の理想の将来像に合致する職業が見つかりにくく、高校では「進路指導が難しい」と先生方の手を煩わせました。医学部進学を望む母と、無限の可能性を追い求めたい私は、意見が合わなかったのですが、当時私が「育ての父親」と慕っていた楽器店店主の一言で、目指す方角が決まりました。「女手一つで苦労して育ててくれたお前の母ちゃんの夢から逃げるようなら、ギターなんかやめて、もう店に出入りするな」。

その後、私は優秀とは言えない成績ではありましたが、医学部を卒業し、病院勤務を経て、病院の中で患者さんを待つのではなく、病院の外に居る労働者の健康と安全を守る産業医の道に進みました。医師としては、むしろ病院の外の世界、市井の人々の生活を知るべきだと思っていました。そこで私は、世の中の人がご病気になる前から、どんなにご苦労されているのかを目の当たりにしました。経済や社会構造の急激な変化が、いかに労働者とその家族の健康に影響を与えるかをこの目で見ながら、出来る限り彼らを支えてきたつもりです。もちろん私自身も、専門職として一般企業に身を投じ、社会に揉まれながら、ある時は見聞を広め、ある時は辛酸を舐めましたが、それも私の強みだと思っています。

そんな私は、声を聴くことを信条にしています 。しかも、出来るだけ「声にならない声」に耳を傾けています。例えば、私の好きな観葉植物やテディベア。彼らは言葉を発しませんが、間違いなく「声にならない声」を持っています。その声を聴くことで、必ず疎通が生まれます。疎通が生まれると、やっぱり可愛い。気持ちや思い入れ、情や涙、感謝や助け合い、愛のかけらが次々に生まれてきます。人間も同じです。幼い子供は、親には絶対言わない声を小さな体の中に秘めています。大人になっても同じで、本音と建前の狭間で言葉を選びながら、やっぱり「声にならない声」を肚の中に溜めています。あまりにも溜め込むと、もはや自分でも聞こえない声になってしまいます。そんな「声にならない声」が誰かの心に届けば良いのですが、逆に行き場を失ってしまった声が、人間の体や心にどんな影響を与えるのか?そして家庭や学級、職場や地域にどんな影響を与えるか?は、もう既に科学が証明し始めている通りですし、実際の社会がそれを表しています。

そんな「声にならない声」の向こうにある心、心を包む命、命ある人生、全てが贈り物です。私は子供の頃から、季節にかかわらず、「毎日がクリスマスとお正月なら良いなぁ」と心底願っていました。毎日、贈り物を受け取るクリスマス。毎日、心新たに願いを込めるお正月。そんな日々を創る為のお手伝いが私の生業です。まずは「声にならない声」を探し、そこから学び、そして癒されることで、その人が活躍する道筋をつけていく。それが私に与えられた力を余すところなく使うことなのだと、今がその時なのだと、自分で思っています。山の湧き水がやがて海に辿り着くように、行き先があるから生まれくるものがあります。私に与えられた力も、あなたのお力になる為に与えられたものかもしれません。あなたの「声にならない声」をお聴かせ下さい。その向こうであなたを待っている、愛や豊かさに逢いに行きましょう。