親子の在り方
私は自分の子どもに
「パパの仕事は素晴らしいんだ」
なんて言おうとは思わないのです。
私は自分の生業に誇りを持ってます。
仕事とか職業とか資格ではなくて
生き方としての私の生業です。
ですから、わざわざ自分で
どうだ!凄いんだぞ!なんて
わざわざドヤ顔で言いません。
むしろ逆です。
親というバイアスを抜き去って
一介の人間である私を見て
子ども自身で判断をしてもらいたい。
そりゃ、自分の親の仕事が素晴らしく、
自分の親は素晴らしい人だと信じたい、
それは人の情け、人情だろう。
だが、それこそがバイアスであり、
子どもにそう思わせようとするのは
一種の洗脳になりかねないし、
彼らの判断力と自己への信頼感を
鈍らせ、損なわせかねない。
判断力と自己への信頼が鈍れば
その子は生きにくくなってしまう。
先に死にゆく親を崇めても
残された子が生きにくくなっては
親は死んでも死にきれない。
だから相手が親であっても関係なく
情やバイアスに流されず
自分の信じる道をゆくように。
それに本当に素晴らしい仕事ならば
親が自慢や洗脳などしなくても
子どもには分かるのだから
先入観なく私を見てもらって構わない。
そしてこの凸凹な私が
不完全ながらも
いかに自分と向き合い
苦悩と葛藤と歓びと笑顔の中で
生きているかを見れば良いと思う。
子どもに信仰されたい訳ではない、
子どもは私の信者ではない。
子どもに味方されたいのは山々だが
子どもの価値観は彼ら自身のものだ。
下手な味付けをして損いたくはない。
親が幼少期に体験した子育てを
そのまま自分の子どもに再現して
それで子どもが悠々と生きれるような
そんなのっぺりとした時代じゃない。
自分の感性で見極める時代。
親を振り切ってでも自分で決める、
自分を生きる自分の時代。
自由と共に厳しさも増した。
頼りにする正邪の価値判断も
自分で創り、自分で見極める時代。
ここからが人間の正念場だと言える。
親を愛するのは構わないが
親に支配される必要はない。
子どもは親のクローンではないし、
子どもが親の夢を叶える義務はない。
子どもは自分の道をゆけば良い。
その為に親として私は
君を見続けているし、
君をこれからも助けていく。
家族トラウマを潜り抜けた私が
辿り着いた家族の定義は
支配せず、敬意で繋がり、
助け合ってゆく間柄、であった。
。