医師 黒木 弘明

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二〇一九年 一〇月一六日(水)

綴りごと 想いごと

父の日とは

 

 

父である人、父のような立場にある人、

さらには、老若男女に関わらず

家族や集団を営んでいる人は全て、

同胞だと私は思っている。

父の日と言うことで、

今日は同胞たちに向けて、少し辛口だが、

私の考えを(少し本格的に)載せている。

〓父の日に父は何をするべきか?(その1)〓
私が考える父の日は、父『が』感謝する日である。
一般には、父『に』感謝する日
と言うことになっているが、
全ての父は自分一人では
父にはなれないのであるから、
むしろ父の方が、
父にさせてもらったことを感謝する日、
又は、感謝を示す日だと、私は考えている。
〓父の日に父は何をするべきか?(その2)〓
父自身が「父としての自分」について考えるのが父の日、
とも考えている。
考えるテーマとして、私が勧めるのは次の2点である。
①「父という名の裸の王様になっていないか?」と
②「父という役割に依存していないか?」である。

〓①父という名の裸の王様になっていないか?〓

周囲や家族から見て、
自分はどんな父になっているのだろう?ということを、
父自身が、真摯に、素直に、逃げずに考えよう。
例えば、あなたが就職をし、収入という経済力を
持つことに威を借りる狐のような父になっていないか?
不機嫌な時に大声を出すだけの
理不尽な存在になっていないか?
家族から(もう何を言ってもダメだ、という意味で)
目をつむられるような、諦めの象徴のような存在に
なっていないか?などについて、改めて考えてみよう。
父である自分に対して、批判的な視点で考察をするのは、
誰しも怖いことでもあるだろうが、
せめて年に一回くらいは、
胸に手を当てて考えるべきだろう。
もう少し具体的な点を挙げるとすれば、
例えば、父としてのあなたの愛情表現は十分だろうか?
パートナーや子どもに対して、あなたの中に在る愛を、
彼らに分かり易い形で、彼らが受け取りやすい形で、
素直に表現しているだろうか?
ただ愛情を表現すれば良いのではない。
相手のことに構わず表現する愛情というのは、
時にして相手の恐怖を生むこともあるのだ。
その為に父は、彼らのことを
「いつまでも」知ろうとしなくてはいけないが、
あなたは彼らのことを、その目とその心で、
しっかり見ているだろうか?胸に手を当てて考えよう。
この1年間で、パートナーや子どもたちの笑顔を、
あなたはいくつ生み出しただろう?
そして、あなたには絶対に見せない彼らの涙のことを、
あなたは何度想っただろうか?
もっともっと、具体的に申し上げよう。
例えば、家の中には
「手伝われても全くもって迷惑なこともある」
というのもご存知だろうか?
あなたなりに、家事や子育てなどを手伝っている
のかも知れないが、
中には、あなたのポイントがズレているが為に、
感謝されるどころか、むしろ相手にストレスを与える
ようなものがあることを、あなたは知っているだろうか?
(さらに素敵な家族であればあるほど、
ストレスを被った相手の方が
我慢してくれることが多く、それによって
あなたの気付きが遅れているというのは、
なんとも皮肉なことだ。)
仮にあなたが、
自己満足的に家をピカピカに掃除しても、
パートナーが心から喜んでいる
とは限らない、という場合もあるのだ。
さらに厳しい視点を続ける。
もしも、あなたから見てパートナーの魅力が
下がったと感じたならば、
それは、あなたの魅力が下がっている
という厳正な現実を、
パートナーが映し鏡のように表現しているに過ぎない。
あなた自身の生き方や、人としての在り方について、
再度考え直す良い機会をもらっている、
と思った方が良い。
〓②父という役割に依存していないか?〓
昭和型の父親とか、令和の時代の父親とか、
父性の復権などと格好の良いことを言っている暇はない。
今が何の時代であろうと、他人がどうしようと、
まずは『あなた自身の父というスタイル』を、
日夜研究し、実践せねばならない。
父として家族を守っている。。。
美徳のように聞かれるこの言葉に、
私は以前から、大変な違和感を覚えていた。
守るというのは、外敵に襲われないように弱き者を守る、
かのような響きがある。
しかし、家族は守るものなのだろうか?
守らなければならない程に弱いものなのだろうか?
仮にそうだとしても、守り続けることによって、
家族が弱い存在のままで居続けてしまう、
という逆転現象も起きてしまうだろう。
そうして、家族がいつまでも弱いままだから、
父に庇護者としての役割が求められる、
というのであれば、
それは父としての自分が、永遠に必要とされ続ける為に、
あなた自身が家族に依存している、
と言えるのではないだろうか?
家族は弱くなどない。
その証拠に、家族は私たち父を
支えてくれる強い存在だ。
父として家族のために苦しい仕事をしている。。。
この言葉にも大きな違和感を覚える。
仕事の苦しみを家族のために耐える、
ということならば、
当の家族は果たして嬉しいだろうか?
父が自分たちのために苦しい思いをしている。
昔は「お父さん、ありがとう」だったかも知れないが、
「私たちの為に(体と心を壊すような)苦しいことは
これ以上しないでよ」と思う優しい家族も、
この時代居るのではないだろうか?
仕事の苦しみというのは、父の中の問題である。
つまり、自分の中の苦しみに向き合わず、
「家族のため」という美徳で誤魔化すのは、
私は家族と自分の人生に対して
とても失礼なことだと考えている。
ちなみに私は個人的には、
父として「大人は苦しいぞ」ということよりも、
「色々あっても大人は楽しいぞ!」
というメッセージを、自分の背中と言葉で発したい。
果たして自分は、
父として、自立しているだろうか?
それとも、依存しているだろうか?ということを、
父の日に父自身が考えることの重要性を訴えたい。
父という名の下に、
何か本来、自分でやらなければならないこと、
自分で向き合わなければならないこと、
それらから逃げていないだろうか?
を自らで検証したい。
何故なら、私の考える家族とは、
各人を美徳という縄で縛り、各人を依存させ、
集団の中に留め置こうとするものではなく、
各人の自立を促し、世界に向かって
自由に解き放つものであるからだ。
〓最後に〓
改めて私が思うのは、
父とは役割ではない、ということだ。
父とは、運命の出逢いであり、チャンスである。
自分という人間に
様々な経験を与えてくれるチャンスであり、
自分という魂を成長させてくれるチャンスである。
修行のように思われるかも知れないが、
真剣にやればやるほど楽しくなるのが
苦行とは異なる部分である。
もちろん、自分も家族も1秒ごとに老いているので、
父の形も、家族の形も刻々と変化すると考えている。
そんな定まらない父という運命の中で、
私は日夜、苦悩しながら
(私の母校の言葉を使えば「哲学しながら」)
楽しみながら自分を全うしたい。
最後まで長文を読んで下さって、有難うございました。
今日の写真は、「私の父の形見の腕時計」です。