善行は願いを叶えるのか?
いつもの生活の中では
考えない事を考えるお時間です。
良い事をすれば願いが叶うのか?
勉強や仕事を頑張れば
他人は認めてくれるのか?
この問いに対して
今の貴方はどう答えるだろうか?
又は、今までの貴方はどう答えたろう?
この問いに対する、本日の時点での
僕の答えは極めて「いいえ」に近いけど
僕も含めて多くの人が、この問いの
答えは「はい」だと教わってきたはず。
ではこの逆はどうだろう?
成り立つだろうか?
●他人に認めてもらうように
勉強や仕事を頑張る、
この方程式は最終的には
上手くいかない気がする、僕は。
他人や世間に自分を認めてもらいたい、
という願望を密かにお持ちの方々は
その実は、認められる以上のものを
他人と世間に求めていないだろうか?
認識されるだけではなく承認を求め、
承認されるだけではなく尊重を求め、
自分を尊重し、そして最重要視し、
いつでも、いつまでも、変わることなく
自分の要望に応えながら、自分の存在を
他人と世間に愛してもらいたいと
望んではいないだろうか?
だが、勉強や仕事の成果だけで
その人を愛することは難しい。
もちろん勉強や仕事の成果で
他人は称賛し、認めてくれるのだが、
それだけでは満足できなくなるのが
人間ではなかろうか?と僕は思うので
この問いの答えは「いいえ」にした。
●願いを叶えるために良い事をする。
まるで神仏と取引をしているようだ。
善いことを行なったので
私の願いを叶えてください、と。
その取引に応じる存在も
広い宇宙の中には居るだろう。
でもそれは本当に神仏だろうか?
そんな取引に応じる存在ならば
逆に貴方に条件や懲罰を
与えるのではないだろうか?
貴方は善いことをしていないので
罰を与えます、地獄に落とします、
善い悪いは、こちらで決めたので
貴方はそれに従えばよいのです。
そんな事を言うのが神仏だろうか?
貴方はその存在を神仏と称して
崇め、取引をするのだろうか?
そんな取引の混じった信仰の上で
神仏として崇められた存在は
図に乗ってしまうので可哀想だし、
そんな取引を続ける人間も可哀想だ。
貴方の願いを叶えるのは
果たして神仏なのだろうか?
貴方だけの力では貴方の願いは
叶わないのだろうか?
叶う為には…とか
どうしたら叶うだろうか…とか
何を小さな算段をすることがあろうか?
世間や他人や地球や宇宙に
愛を灯すような願いならば
考えずとも叶うだろう。
その逆に、対象が限定されていたり、
偏っていたり、永遠の持続や不変を
望むような願いは、条件が多いので、
実現には時間がかかるだろう。
(この条件のことを執着と言う)
願いの実現の為に
良いことをするのではなく
良いことをすること自体が良いこと、
それでもう良いじゃないか。
願いの実現の取引材料などではなく、
自分が願いと一体となれば良い。
後の結果に関わらず好きでやれば良い。
欲と取引を混ぜると不純になる。
神仏が取引をするかどうかではなく、
貴方が取引をするかどうかの問題。
取引は条件を生み、条件は執着となり
愛なる自由な願いの足枷となる。
左折も四回すれば元通り。
ぐるぐる回ってしまう。
こだわるから進まない。
願いが進まないなら
再設計し直すまでだ。
。